住吉橋、西道頓堀橋、幸橋 幸西橋と周辺の歴史

先人の足跡をたどる №112(浪速区)

▼前回、深里橋の次が保険医協会すぐ西に架かる住吉橋。道頓堀川北に流れていた堀江川が元禄十一年(1698)、大阪治水工事の恩人、河村瑞賢により開削され、付近が整備されたのに伴い幸橋、汐見橋、日吉橋と共に架けられました。住吉橋は橋の上から南方面約6km離れた、住吉大社の高燈籠が見え付いた橋名です。
先人112

道頓堀川▼高燈籠は住吉大社西に流れていた十三間堀川前に建っていました。鎌倉末期からあった燈籠で、高さ約16mもあり、航海の安全と献灯を兼ね付近の漁民が建てた、と伝わります。往古、一面田園地帯で集落が点在していた風景が想像できます。高燈籠は昭和25年のジェーン台風で倒壊しましたが、昭和49年、住吉名勝保存会などによって住吉大社前に再建されました。歴史を継承する地元人々の郷土愛が伝わります。「住吉」の由来は、211年、神功皇后が「真(まことに)住み吉し」と当地に住吉大社を建立した、と伝わります。

▼次が西道頓堀橋。現なにわ筋の拡幅で昭和34年に架けられました。本項の参考文献、松村博著「大阪の橋」に記された、宮本輝・小説「道頓堀川」(1979年)の一節と、松村氏の文を引用させて頂きます。……主人公に「戎橋の次が道頓堀橋、その次が新戎橋、それから大黒橋に深里橋や。ほんでから住吉橋に西道頓堀橋、幸橋となるんやけど、その辺の橋に立って道頓堀をながめてると、人間にとっていったい何が大望で、何が小望かが判ってくるなァ」と語らせているのは、上下流の極端な変化を表現したものであろうか。……西へ行くほど町並みや人通りが、寂しくなる風景を描いているのでしょう。

▼次が幸橋、前号で記しましたが、幸町は江戸時代からの町名で、海岸線で幾度も洪水で悩まされ、町の安全を願い「幸町」と名付けたのでしょう。私は3年前まで西淀川区の阪神「福駅」付近で勤めていましたが、ある歴史案内コースが浮かんだのです。浪速区「幸」町から西淀川区「福」町まで辿る「幸福」ツアーです。単に語呂合わせではなく、約7kmの行程ですが、道頓堀川、木津川、尻無川、安治川、六軒家川、正蓮寺川、淀川の七つの川を越えるのです。各川とも治水のため、先人の大変な努力によって開削や改修が行われ、私達はそのお蔭で、現在「幸福」な街に住めているのです。その想いにふれる旅です。

▼5年前、私が案内人の毎日新聞連載「わが町にも歴史あり」で募集したところ、1月の寒風の中、定員25名に100名近い応募があり、抽選のうえ挙行しました。

▼このコースは謎解きも含まれています。七つの川を越えるには七つの橋を渡らなければ……道頓堀川「幸橋」・木津川「大正橋」・尻無川「岩松橋」・安治川「???」・六軒家川「朝日橋」・正蓮寺川「森巣橋」・淀川「伝法大橋」…橋は六つ、安治川には橋が無い!どうして渡るのか?安治川川底トンネルをくぐるのです。先人に感謝しつつ、参加者の新春の幸福を願う小旅行、好評のうち福駅前の居酒屋で乾杯しました。このコースは歯科保険医協会でも実施しました。

▼次が幸(こう)西(さい)こうさい橋。大正8年(1919)堂島大橋から市電が敷設された際に、現あみだ池筋に架けられました。ここで浪速区の「町名改正」で消えた主な町名です。貴重な昭和38年大阪市区分地図をご覧ください。難波入堀川から新川町(現難波中)、難波御蔵から蔵前町(同)、蔵から出航する処から船出町(敷津東)、広田神社から広田町(日本橋西)、字名から東・西円手(えんて)町(湊町・桜川)、開発者、木津勘助から勘助町(敷津西)、反物屋があったのか反物町(桜川)、いずれも明治33年から昭和55年まであった町名(反物町は昭和42年)で、古の風景が見えてきます。次回は汐見橋からです。浪速区地図


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