治水工事で安全な町に 今川と夢ある橋名


先人の足跡をたどる №118(東住吉区)

▼駒川の文化橋を後に少し東へ歩けば、近鉄南大阪線今川駅。駅を越えると、町名が西今川に変わり、300m程先に今川が流れています。駒川とほぼ平行に流れ、1700年頃までは狭山池が水源で西(にし)除(よけ)川の下流でしたが、大和川付替えで水流が途絶え、今は駒川と同じく下水処理水を流しています。今川の西岸は天王寺庚申堂から繋がる庚申街道で、南下すると大和川北岸の矢田まで通じています。庚申街道も街道ならではの風景で、神社仏閣などが繋がります。阿倍廃寺跡(近鉄あべの駅南)、桃ヶ池、田辺氏が創建した田辺東神である中井神社(東住吉区針中野2)、前号で記した酒君塚(同鷹合2)、湯里住吉神社、覚林寺(同湯里4)、中臣須牟地(なかとみのすむち)神社(同矢田7)などです。天王寺から大和川まで約6㌔、のんびりと庚申街道を辿るのも一興でしょう。

▼今川の東岸は春になれば、大阪城、桜宮と並ぶ大阪三大桜名所として賑わっています。桜並木は南北3㌔も繋がり、その昔は漆堤と呼ばれ漆が多い茂り、紅葉の名所でもありました。駒川を含め、大阪市内を流れる川の護岸(ごがん)の多くは、水色の鉄塀になっています。今川や駒川など低湿地の川は天井川が多く、台風などで甚大な被害を被むりました。そこで、昭和24年(1949)頃から各地で治水工事を実施。一旦水を堰き止め鉄塀を打ち込み、川底を深く掘り下げ水流の氾濫を防ぎ、安全な街となったのです。行政の方々が大変な努力を成されたのに、川に捨てられたゴミを目にすると、大変嘆かわしく思います。その今川改修之碑が高速道路の下に建っています。完成の年、昭和29年(1954)当時の大阪市長、中井光次市長の直筆です。私達は行政や工事関係者への感謝の気持ちを、決して忘れてはなりません。橋4

▼碑の手前で今川と支流の鳴戸川が合流します。案内で語るのが、川の合流点の話。高槻市成合(なりあい)や、茨木市安(あ)威(い)川、東淀川区相川、大正区落合ノ上渡しなどは、二つの川の合流点が由来。神奈川県愛甲(あいこう)郡も、合(あい)河(こう)の当て字です。また川の分岐点を俣といい、東大阪市の長瀬川と第二寝屋川の分岐点には川俣の町名が、杭(く)全(また)も往古から大和川の多くの支流が杭(くい)状に流れ、川俣(また)の地形が由来で、全(まったく→また)は音が近い俣への当て字です。私の名、西俣は鹿児島県がルーツですが、お隣の宮崎県に西俣山もあり、川俣の西に住んでいたのが由来です。

▼碑の前の南港通を渡ると、今川東岸に「桑津今川堤跡」碑が建ち、「櫨の木が並んでいた」と刻まれています。東岸は平野大念仏寺の参道でもあり、昔は「嫁謗(よめそしり)堤」とも呼ばれ、参拝の帰りに老婆達が人目を避け、嫁の悪口を言って憂さ晴らししていたそうです。

▼今川も駒川同様多くの橋が架かり、鳴戸川を合わすと45の橋が架かっています。橋名を付けるのも大変だったと思いますが、今川には微笑ましい橋が架かります。中吉橋、片方の親柱には「なかよしばし」と、小学校の女の子が仲良く手を繋ぎ渡っていました。次の橋が「希望橋」その次が「平等橋」。「平等」の由来が歴史深く、当地一帯の杭全荘が鎌倉前期に宇治平等院に寄進され字名から、平等橋の名が付きました。旧平野郷と旧喜連(きれ)村との境には平等堤もありました。橋

▼大正末期から昭和初期に付けられた橋名ですが、「中吉・希望・平等」。夢のあるいい橋名ですね。現在は「なかよし」の反対で国家間の紛争やテロ、人間同士のもめ事、犯罪。経済など希望が持てず、平等ではない格差社会。……先人が夢を託した、橋名どおりの社会を築いていきたいものです。次回は駅名、町名ともなった「針中野」です。

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