暗峠奈良街道と玉造、猫間川跡周辺を辿る
- 2019/2/15
- 先人の足跡をたどる
先人の足跡 No.150(東成区・天王寺区など) 大阪案内人 西俣 稔
前回の八阪神社の参道に、明治35年(1902)建立の「暗越奈良街道距高麗橋原標壱里」と刻まれた碑が建っています。暗越奈良街道は玉造が起点で、生駒山の暗峠を越え奈良へ通じていましたが、明治9年(1876)に北浜の高麗橋まで延ばされ、ここまで一里ありました。北浜高麗橋東詰に建つ「里程元標」碑には、「明治時代…(馬賃などの算出のため)西日本主要道路の距離計算はここを起点として行われた」との趣旨が記され、明治初期に京街道や中国街道、熊野街道など主要な街道が、高麗橋まで延ばされました。「暗がり」は木に覆われた「暗い」山道が由来ですが、京都の「鞍馬」も、同じく山間の「暗間、暗部」ともに音が近い躍動感ある「鞍馬」を当てたものです。「暗間天狗?」では小説やドラマにはなりませんね。
碑を後に長堀通を渡ると、「玉津」の町名、西約700mにある玉造の津(港)が由来で、舟着場があったのでしょう。平野川に「玉津橋」が架かります。暗越奈良街道を西へ行くと、JR玉造駅前に「黒門橋」と「二軒茶屋跡」の碑が建っています。埋め立てられた猫間川に架かっていた「黒門橋」は、黒塗りの門であった大坂城玉造門に通じるのが由来、猫間川跡に黒門橋コンクリートの欄干が残っています。因みに外国人客などで賑わう日本橋の黒門市場は、付近にあった圓明寺の山門が黒門であったためです。圓明寺は明治45年(1912)1月16日ミナミの大火で焼失し、今はありません。
ここで上町台地東岸壁と、その下の猫間川跡に因む町名の話です。近鉄上六駅南東の「石ヶ辻」は、台地の石がむき出しの様。続く「筆ヶ崎」は、筆塚があった処で、「崎」は台地東の崎の意味。「細工谷」は長い長い歳月で猫間川によって自然浸食された台地が「細工」したような「谷」を形成した風景。「松ヶ鼻」は松の木が茂り、台地の崎(鼻)のこと。JR寺田町西の「烏ヶ辻」も、桃畑が多く、烏が餌を狙い舞い台地の崎(辻)。鶴橋北の「舟橋」は猫間川は狭く、小舟を両岸に固定していた風景から。町名から古の風景が観えてきます。
伊勢街道に戻り、街道は茶屋が付きもので、二軒茶屋は、明治半ばまで「つる屋・ます屋」があり、休憩や旅の別れを惜しむ処でした。他にも中国街道には茶屋町(梅田)、野崎街道に中茶屋(鶴見区)、紀州街道に天下茶屋、堺の西高野街道にも中茶屋の町名が残っています。玉造駅を越えると、玉造日出商店街です。昔は平野街道や鶴橋街道と呼ばれ、平野郷(現JR平野駅南)に通じ、戦前から朝日座やヤマト館、玉造座、三光館など多くの寄席、映画館がありました。
跡地はスーパーなどになり、一般の商店より間口が広いです。その一つ「三光館」は、昭和5年(1930)漫才師エンタツ、アチャコ(当時35・34歳)が初舞台に立った処です。戦前は北にあった、大阪砲兵工廠の仕事帰り工員たちでごった返し、つかの間の憩いの場として賑わっていました。
その砲兵工廠の痕跡が残ります。玉造駅の路線は少し弓型にへこみ、西側にマンションなどが建っています。昭和9年(1934)に城東線(現環状線)が高架になりましたが、森ノ宮駅から玉造駅まで側線が引かれていました。この側線こそアジア最大の軍需工場、大阪砲兵工廠(現大阪城公園)から兵器など軍事物資を運び、ここでトラックに積替え、西へ西へと強引に家屋や寺などを立退かせ通させた軍用道路跡です。道路は此花区桜島の軍港まで繋がりアジアの戦地へ運ぶ予定でしたが、全ての道路が貫通する前に終戦を迎えました。私は平和ロードとして、現場で案内しています。
多くの先人たちが辿ってきた、街道や川筋、商店街を、歴史を知って歩けば、普通の町にも愛着が持てます。次回は平野川跡へ戻ります。