森之宮神社から玉造稲荷神社玉造教会を辿る

先人の足跡をたどる №132(中央区) 大阪案内人 西俣 稔

歴史ガイドの写真は、石碑、親柱、神社仏閣の塀や壁などどうしても、白や黒っぽい写真が多くなります。そこで年に2回の本紙カラー版にふさわしい建物を撮った特別編で、玉造界隈をご案内します。

「森ノ宮駅」の駅名は西すぐの森之宮神社に由来。正式名は鵲森宮かささぎもりのみやで推古天皇期に鉄鋼業の祖である吉士盤金きしいわかねが朝鮮の鵲を献上し、この森で飼育していたと伝わります。社伝には589年に聖徳太子が父、用明天皇を祠り創建したと。神社は玉造筋の拡幅で縮小されましたが、神木に囲われた落ち着いた佇まいです。神社北東約2kmにある天王田てんのうでんの町名は、この用明天皇の神領(神田)が由来。昭和50年代に町名「改正」で消滅するところを、住民が訴え由緒ある町名を守り抜きました。

細川ガラシア像

神社の南西、上町台地の急な坂を登るとカトリック玉造教会があり、細川ガラシア夫人の石像が建っています。本名は玉、明智光秀の三女でのちに細川忠興と結ばれ、この地の細川家で居住します。忠興の茶人仲間であるキリシタン大名、高山右近の勧めで入信し、ガラシアの洗礼名を受け熱心な信者に。貧しい子ども達を屋敷内へ住ませ世話などをしていました。好色家の豊臣秀吉が美貌あふれるガラシアを城内へ呼び寄せ、手を握ろうとした時に懐中の短剣を落とし秀吉の度肝を抜いた、との話が残る気丈な女でもありました。

慶長五年(1600)石田三成の城内への人質要求を断固拒否したために三成が急襲、キリシタンが故に自害できず、障子越しに家老に槍で胸を突かせ壮絶な死を遂げました。没37歳。ガラシア夫人の優しさとたくましい魂は今、教会のステンドグラスの光として、優美に輝いているのかも知れません。

優美に輝くステンドグラス

玉造教会のすぐ東に玉造稲荷神社が。ここで「玉造」の由来を、文献上の初見は奈良時代まで遡り、古墳時代から装飾品の勾玉まがたまを作る玉作部が、当社辺りにありました。玉造稲荷神社は様々な歴史を大切にしておられます。順に案内します。

鳥居をくぐると「伊勢迄歩講起点いせまであるこうのきてん」碑が、当社で旅の安全を祈願し、伊勢街道からくらがり峠を越え、伊勢神宮まで約170kmを参っていました。当社は現在も年末に二泊三日、徒歩での参拝を企画されています。境内奥に目を見張る風景が、石鳥居が地中に埋もれ、上部のみ見えています?

玉造稲荷神社境内 左は保存された鳥居

実はこの鳥居は豊臣秀頼が奉納した貴重なものですが、先の阪神大震災で基礎が破損し、倒壊の危険があったために、下部を切断し保存されました。下部も鳥居の裏にあります。神社関係者の無念の選択が伝わります。その秀頼の巨大な銅像は7年前に建立されました。銅像の左には古代の倉を再現した「難波なにわ・玉造資料館」が建ち、申し出れば見学もできます。

資料館右の石段を下ると、難波なにわ伝統野菜の玉造黒門越瓜しろうりを栽培されています。10年程前に近くの清水谷高校の生徒らが、越瓜を練ったクッキーを作り商品化し、文部科学大臣賞を受賞しました。次代へ難波伝統野菜を継承する、素晴らしい取り組みです。

「秋田實笑魂碑」

石段右には上方漫才作家の大御所、秋田實氏の「笑いを大切に」と彫られた「秋田實笑魂碑」があります。秋田氏は当社付近で生まれ育ち、エンタツ・アチャコなどへ多くの台本を提供しました。私は氏のこの言葉が大好きです。「月よりも 花よりも なお美しき 人の笑い顔なり」…平和だから、仲がいいから、安全な街だから、生活の安定があるから…笑えるのです。私は万人が笑えるようにと、ささやかながら、良質な大阪を広めています。次回は住之江区に戻ります。


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