歴史ある住之江・粉浜の地名と住吉大社高燈籠

先人の足跡をたどる №124(住之江区) 大阪案内人 西俣 稔

熊野街道の神社仏閣の話しが続きますが、一旦住吉大社に戻り、南海粉浜駅や高燈籠周辺をご案内します。住吉区と隣接する住之江区は北が南海電車、南が阪堺電車の軌道が境界となっています。昭和49年(1974)に人口増加で住吉区から分区、城東区から分区した鶴見区と共に、大阪24区の最後にできた区です。住之江の地名は古く、「墨江」「住吉」とも書かれ、奈良時代初期の風土記には「神功皇后の時、現神(神が現世に現れること)をあらわした住吉大神が、鎮座する所を求めて、当地に定め『真住み吉し、住吉すみのえの国』とあります。古代は住吉大社前の紀州街道が海岸線で、江戸時代から新田開発で築地され、戦後も南港など埋め立てにより、広ろがっていった街です。

南海粉浜駅から出発しましょう。「粉浜」は住吉大社社殿の材木の積み降ろしをしていた浜で、木浜が由来と伝わります。駅前には天平六年(734)の万葉集歌碑が建っています。「住吉の粉浜のしじみ開けても見ずこもりにのみや恋ひ渡りなむ」とあります。現代訳では「私は住吉の粉浜のしじみのように、しっかりと蓋を閉じて胸の思いを打ち明けないで、心の奥に隠したまま、恋し続けるのであろうな。」となります。粉浜の地名がこんな古くからあり、古の人のシャイな感性が伝わります。この歌碑は万葉学の第一人者、犬養孝(1907~1998)が建てた歌碑で、全国の万葉ゆかりの地を訪ね、建立した万葉碑は131基に及びます。大阪大学で教壇に立ち、現東粉浜に住んでいました。

「粉浜」と記された万葉歌碑

粉浜駅は明治38年(1905)付近の平林に火力発電所ができ、労働者の通勤の便を図り同40年に開設しました。駅前の粉浜商店街は同40年に米屋など7人が始め、現在は大阪の商人あきんどの心意気を感じる、伝統的なお店など、約120軒並びます。

商店街を南へ抜けると住吉公園で、たくさんの灯籠が建ち並びます。元々は住吉大社の御田で、明治6年(1873)大阪初の公営公園として造営されました。公園西の国道26号線に高さ約20mの高燈籠が建っています。元の高燈籠は200mほど西の十三間堀川横にありましたが、昭和25年(1950)9月3日、500名を超える死者行方不明者の惨状をもたらしたジェーン台風により倒壊しました。それを地元有志でつくる「住吉名勝保存会」が、昭和49年(1974)に再建しました。住吉の歴史的景観を継承するために、再建に尽力された「保存会」の方々の熱意が伝わります。

再建された高燈籠

鎌倉末期に建てられた前の高燈籠は、高さ約16mあり、航海の安全や住吉津の目印、また住吉大社への献灯として、当地の漁民が寄進したものです。付近の遠里小野おりおの村が菜種の産地でその菜種油で灯していました。寛政六年(1794)の「住吉名所図会」には、住吉大社反橋と並ぶ名物と記されています。いかなる時も点灯を続け、正に常夜灯でした。大阪府内の名所史跡などを刻銘に記した「大阪府全志」(大正11年)で著者の井上正雄氏は、「高燈籠へ上がれば、金剛、飯盛、の山を背に、六甲、摩耶を右に…前は茅海(ちぬ、大阪湾)で淡路の島影が横たわり、湾水は青く瑠璃のようで、きれいな舟帆が宛然と絵を見る思いがする」との意が書かれ、絶景であった高燈籠からの眺望が目に浮かびます。本連載112号で記した保険医協会事務局すぐの住吉橋は、約6.4キロ離れていますが、この高燈籠が見え付いた橋名でした。間が一面田園地帯であったからです。再建した高燈籠は日曜日、燈籠内を上れます。ビルが林立する現在、住吉橋を見る術はありませんが、時代の変貌を想うのみです。

次回は熊野街道へ戻り神社仏閣を訪ねます。


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