野坂昭如

作家寄席集め 第16回 野坂昭如/恩田雅和

黒メガネをかけたプレイボーイでレコード歌手デビューし、映画やCMに出演、一時は参議院議員を務めた野坂昭如(1930~2015)は、抒情的な作品を数多く残した直木賞作家でした。

その受賞作は、ともに昭和42年に発表された「アメリカひじき」と「火垂るの墓」でした。アメリカからの来客を個人的に接待する日本人夫婦の戸惑いと行き違いをユーモラスに描いた前者と、神戸の空襲で逃げまどい、背負った妹を栄養失調で亡くす浮浪児をテーマとした後者は、敗戦後20 年経過した当時の日本が依然アメリカの影響下にあることを、否が応でも意識させるものでした。

野坂はこれらの作品によって、「焼跡闇市派」とか「昭和ヒトケタ世代」などとジャーナリズムで一層喧伝されるようになりました。ほぼその頃野坂が書いた短篇小説に、六甲山ふもとのホテルバーで知り合った地元若者と黒人とが話し合うのを傍でじっと観察する「くらい片隅」があります。そこでは英語通訳者が「やたらとよく笑い、落語家といっしょで、あんなに笑いっぱなしでは、家族の者にさぞ仏頂面するのだろう。バアでアメリカ人と酒を飲んでいる奴、レストランで、アメリカ婦人をかこみ、いい歳した男どもの、レディファーストコンクール」などと毛嫌いされています。敗戦後の混乱とコンプレックスのためか、通訳者を語るのに落語家が引き合いに出されていました。

大学紛争が終息した昭和40年代後半、大学の落語研究会を舞台にした小説「ああ軟派全落連」が書かれました。その主人公の勲は「高校時代から寄席に足繁く通って、特に誰というわけではないが、昼席のすいた客席にぼんやり過ごせば、いかにも人生の落伍者といった落魄の趣き身にしみ」る男で、西北大学(野坂の母校、早稲田がモデル)に入学して落研に入ります。落研活動の一つとして、学内の小講堂でプロの噺家「前座三人真打ち一人」を呼んで落語会を開き、会員が小遣い稼ぎをしていました。すでに「小さん、文楽の門をくぐり」今度は柳好に交渉しようと企画します。

勲たち学生は、向島にある柳好の家を直接訪ねました。「道のかたわらに、古びた床几があり、老人が朝顔の鉢にじっと見入っていた、まごう方なき柳好で、しかし、高座での艶冶な印象とまるでうらはらの陰惨といってもいい表情、こちらに気をとめるでもなく、丹精こめているのか、それにしては変哲もない朝顔の花を、うつけたようにながめ、浴衣からはみ出た脚も、つややかなはずの額も、すっかりしなびきって見えた」。それで、声もかけずに帰ります。

ひょうひょうたる高座で知られ、昭和31年69歳で没した三代目春風亭柳好の自宅での素顔が、ここに写し取られていました。この柳好の十八番の一つに「野ざらし」がありました。向島に釣りに出かけた隠居が一匹も釣れず、見かけた野ざらしのどくろにふくべの酒で回向するとその晩若い女幽霊が現れ、隠居に礼をするというもの。

実は、野坂も昭和49年春の『別冊小説新潮』に短編小説「野ざらし」を発表していました。大学助教授が利根川で釣りをしていたら、しょれこうべがひっかかりました。「気持の底には、落語の『野ざらし』があった」助教授はウィスキーを注ぐと、3週間後、大学の事務室を通して若い女が現れます。女は妻子ある助教授につきまとうので、鬱陶しくなった助教授はカッとなり「亡者をして亡者の立場にかえ」すというストーリーです。

ちょうど前年、大学助教授が教え子を殺して一家心中するという世間を騒がせた事件があったばかりで、野坂はそれを踏まえ、柳好の高座を重ねながら古典落語を書き換えたものと考えられます。


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