終戦直後、独力で架けた橋 幻の十津川屋橋を追って


先人の足跡 No.153(東成区) 大阪案内人 西俣 稔

今回から浪速区をご案内します。昭和18年(1943)にできた区で、面積4.39㎢、日本で一番狭い行政区です。しかし奈良街道や紀州街道が通り、今宮戎社、広田神社などが鎮座し、明治36年(1903)内国勧業博覧会の跡地にできた、通天閣や新世界など時代を越えた歴史を観られる町です。まずは新世界周辺を舞台に、終戦直後に独力で橋を架けた、無名の人物を紹介させて頂きます。本文は2000年4月枚方のタウン誌に掲載された記事ですが、戦争の傷跡を風化させないために、加筆訂正した文です。

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…「大阪・焼跡闇市」を読んだ。「終戦が戦争の始まり」の記述どおり、空襲による焼跡で、その日その日を生き抜く、凄まじい庶民の生活を克明に綴った名著だ。そのある記述に大変興味を抱いた。

要旨は、「終戦直後のすさみがちな人びとに、ホッと思わせることが、昭和23年7月23日付の『朝日新聞』に掲載されている。浪速区恵美須町の喫茶店十津川屋の西谷良一さん(仮名・当時38歳)が、入堀川に小さな仮橋をかけた。夕日橋という橋があったが、戦災で焼け落ち、主婦は米などの配給所まで遠回りし、通学する小学生は焼残った鉄管を危なげに渡るので、見るに見かねて月賦で材木を買い、独力で橋をかけた。名付けて「十津川屋橋」。

十津川屋橋が架かっていた堀川跡(今宮戎神社東、約100m)

私は終戦直後の殺伐とした時代の、この美談に感動した。そして西谷さんや家族にお会いし話を聞こうと思った。まずは電話帳で調べたが、もう50年以上も前のこと、西谷さんも店もなかった。そして現地へ行き、広田神社の宮司さんや、当時からある旅館の女将さんに会った。浪速区は空襲で95%焼かれた所で、戦後転居した人が多く、地の人は少ないとのこと。十津川屋橋跡は確認できたが、西谷さんは分からなかった。女将さんは「この辺は空襲で一面焼け野原、ここから大阪城(約4㎞離れた)が見えたのですよ。横で友人が機銃掃射で殺された。戦争だけはまっぴら!何事にも無関心の時代に大切なことを調べているね。頑張ってくださいね」と言われた。私は胸が熱くなった。

数日後、西区中央図書館で昭和28年の電話帳・浪速区史・校区の恵美小学校記念誌・昭和40年浪速区団体役員名簿などに手掛かりを求めたが、分からなかった。そこで、大阪市内13名の西谷さんに、手紙を送った。文末に「戦後55年、物は豊かですが、暗いニュースが多い昨今です。この話を今に語り継ぐことが大事かと思います。お心当たりの方は、ご連絡ください」と書いた。5人の返事はいずれも「存じません」。でも「いい話ですね。見つかればいいですね」と激励も頂いた。

「 十津川屋橋」を掲載した、昭和23年の『朝日新聞』

諦め切れない私は、原点に戻り、昭和23年の『朝日新聞』大阪版を調べに、中之島図書館へ行った。マイクロフィルムから、その写真が写し出された。「これや」私は高まる鼓動を抑えきれなかった。写真!写真!である。なんと「十津川屋橋」と書かれた木橋の上で、完成を喜ぶ、西谷さんと地元の人々が写っている。幻の十津川屋橋を〝見た〟感動と、50年以上の歳月を越え、伝わるみんなの喜びの表情に、目頭が熱くなった。

西谷良一さんはどこにいるのだろう。私事だが、私の父母が営んでいた食堂は「さぬき」という。母が香川県出身だからだ、そうだ!西谷さんは奈良県十津川村出身かもしれない。電話帳で一軒だけの西谷さんへ手紙を送った。良一さんの従兄弟だった。やっと良一さんに近づいた。でも残念ながら、昔から行き来がなく分からない、との返事だった。豊中市桜の町の居酒屋「十津川」へ行った。近くに「西谷」姓の方が住み、この人の店であれば手掛かりになると思った。でも違った。ただ女将さんも十津川村出身で店前を流れる千里川に故郷を想い、屋号にしたという。良一さんの「十津川屋」と重なるものがある。

見づらいマイクロフィルムを基に、画家、高宮良子さんに書いて頂いた絵

大阪市内の西谷さんは、手紙で良一さんのとの関係はないと分かっている。今度は大阪府下を調べようと、中央図書館へ行った。昭和50年代の電話帳が山積みされた。丹念に調べたが無かった。少し疲れた。しかしもう一度、昭和40年代の電話帳を司書にお願いした。漏れのないように、岬町から能勢町まで「西谷良一」の4文字を追った。門真市を開いた。あった!みつけた!やっと「西谷良一」をみつけた。昭和43年、同市内でタイヤ修理業をしていた。

…続く

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