秋田 實

作家寄席集め 第12回 秋田 實/恩田雅和

上方漫才の父と謳われた漫才作者・秋田實(’05~’77)は、生涯に7千本を超える漫才台本を書いたとされています。

秋田が漫才の歴史や自身のことを振り返った著書(『大阪の大衆演芸』『大阪の芸能』昭和48年毎日放送刊所収、『私は漫才作者』昭和50年文藝春秋刊)などによりますと、「漫才を中心に演芸の仕事を手伝いはじめたのは昭和の初め頃からで」、きっかけは昭和6年に作家の藤澤桓夫が紹介した大阪朝日新聞記者の同席で横山エンタツと出会ったことでした。

よく知られているように、エンタツは花菱アチャコとコンビを組み、しゃべくり漫才の代表作「早慶戦」で一世を風靡しました。この「早慶戦」に秋田も関わり、「昭和一一年に初めてエンタツさんの漫才の本を出版する時に、何日かエンタツさんの家に泊り込みで、それまでの野球ネタを一つに大きくまとめ、枝葉を切って整理した」そうです。戦後も秋田の書いた台本から、ミヤコ蝶々・南都雄二、秋田Aスケ・Bスケ、夢路いとし・喜味こいしらの漫才コンビが大きく羽ばたき、演芸界を席巻しました。

そんな秋田の演芸の原点はすでに子供の頃にあって、「母親がよく明治時代の大阪の寄席や芸人の話を、見た通り憶えている通りに話してくれた」とのことでした。旧制中学の4、5年頃からは「自分のお小づかいで寄席や漫才小屋に行くようになった」そうです。「この母親は、私が演芸の仕事をするようになってからは、私の漫才や落語の先生であった」とも述べていますので、秋田は母親の影響を強く受けていました。

母親は漫才だけでなく、落語や仁輪加など当時の演芸全般に詳しかったようで、十代の秋田も大衆芸能全体に関心があったことが想像されます。

雑誌『大阪春秋』が2018年秋号で「再考 秋田實とその笑い」と題した特集を組んでいて、中に関西大学の浦和男准教授による「『林熊王』から『秋田實』へ」という興味深い一文がありました。秋田は東京帝国大学に入学してまもなく左翼運動に関わり、林熊王の名で『大学左派』『集団』などの雑誌に小説を発表、森一の名で『戦旗』にも作品を載せていました。

また『戦旗』の昭和5年2月号に「落語 家賃値下げ」、同じく5月号に「落語 頑張れメーデー」をそれぞれ永島一の名で発表、永島一の名では『少年戦旗』に童話も掲載していました。浦准教授は藤沢桓夫との関係で雑誌執筆に加わり、「『永島一』は秋田の筆名と判断してよいだろう」と考証しています。

昭和の初め、漫才中心に演芸の仕事を始める以前、秋田はさまざまなペンネームを使用していましたが、それは小説、童話また落語と秋田自身が手掛けようとしたジャンルを手探りしていた時期にも重なります。

秋田の長女で童話作家の藤田富美恵さんが父の思い出を語った『父の背中』(’89年、潮出版社) で、本名・林広次の秋田はペンネームをたくさん持っていたことを明かしています。「春野仲明(春のながめ)」、「夏輪篤(夏は暑し)」、「秋田實(秋の田がみのる)」、「冬賀北蔵(冬がきたぞう)」など四季を揃えたものがあって、最も著名になったのもそのうちの一つだったことが分かります。

秋田が死去した翌年の昭和53年に、秋田とイラストレーターの和多田勝(元・笑福亭小つる)との共著『オチの表情』(少年社)が刊行されました。和多田はこの本の「はじめに」で、秋田は畢生の仕事として落語のオチの研究をしていて、それが未完に終わったと触れています。漫才作者・秋田の絶筆が落語の本質を極めようとしていたものだったのは、秋田の原点が漫才にこだわらずいろんな領域にわたっていたことを物語っているように思われます。


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